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『旅好き産業医ブログ』を管理人おすぎのプロフィール
幼少期~小学校
1970年代、岐阜県各務ヶ原市にて出生。兄弟は姉、兄、姉で末っ子。いわゆる医師の家庭に生まれたわけではなく、両親は共働きで喫茶店、青果業を経営。そのため祖母や祖父と過ごす時間が多く、両親と公園などで遊んだ記憶がほとんどない
物心ついた時には、祖父が普通とは違っていた。昔、近所の家の屋根で作業をしていて転落し、頸椎損傷し四肢麻痺(首から下が思うように動かない)
小さい頃は人の助けを借りればなんとか家の中なら歩けていた祖父が、小学校低学年の頃にはほとんど歩けなくなり、一日中こたつに座っていた。小学校から帰ると祖父の横に座り、祖父の手伝いをしていた(自分で頭を掻くこともできないし、爪を切ることもできなかったため)
その頃から、「どうしておじいちゃんは歩けないのだろう?」「どうして昔は歩けたのに今は歩けないのだろう?」と疑問を持っていた。
四肢麻痺のため、日常生活のほとんどを自分で行うことができず(大便をする時は、人を呼ばないといけなかったし、よく祖母が摘便をしていた)、他の老人たちのように趣味を楽しむことができなかった祖父だったけど、不平不満を聞いたことは一切なく、いつも「ありがとう」「ありがとう」と言っていた。
お菓子の袋を開けて食べさせてもらうと「ありがとう」爪を切ってもらっても「ありがとう」毎朝祖母が顔を拭いてくれると「ありがとう」。(当時、介護保険サービスなどなく、また共働きの両親は行政との接点がほとんどなかったため、サービスを一切受けていなかったように思う)
入浴は、プールのようなものにお湯をはり、月に1度くらいしか入れなかった。そのような状況でもいつもニコニコしている祖父は僕の自慢でもあり、憧れでもあった。
小学校4年生の頃だったと思う。いつものように祖父や祖母に「行ってきまーす」と伝えて登校したが、授業の途中で家から連絡があり「おじいさんが死んだ」と伝えられた。
多少体調が悪かったものの、いつものように「ありがとう、ありがとう」と言っていた祖父が、もう何も話せなくなっていた。
祖母に抱きかかえながらずっと泣き続けた。
「お前、おじいちゃん大好きだったもんね」と慰められながら、ずっと泣いていた。
いつものように祖母に顔を拭いてもらう朝、「ありがとう、気持ちいいなぁ、ありがとう・・・・」という言葉を最後に、苦しむことなく祖父は息を引き取った。
近所にスーパーができはじめ、両親の商売はうまくいっているとは言えなかった状態だった。
医者というと両親が裕福だったと思われるけど、そうではなくむしろ周りと比べて貧乏な家庭に育った。
洋服を買ってもらった記憶はほとんどないし、兄のおさがりの破れた服を着て学校に行っていた。それでも祖父の影響なのか、やせ我慢ではなく、破れた服を来て学校に行っていたことを、恥ずかしいと思ったことは一度もなかった。
服を着られるだけでありがたい。こんな幸せな家庭に生まれただけでもありがたい。
小学校高学年になり、塾に行き始め、何かを覚えることが好きで、ことわざの本などを一冊まるまる暗記した。
(記憶力がよかったわけではなく、通学途中ずっとことわざを覚えていた)
それが自慢。「昔から頭が良かった?」と聞かれることがあるけど、知能テストか何かでは標準レベル。
ただ、忙しくて会話する機会も少なかった母親に、褒めてもらえるのが嬉しくて、そうしていたかもしれない。
中学、高校時代
中学時代はバスケット部に入り、決してうまくなかったし補欠選手だったが、ともだちと一緒に早起きして何時間もシュート練習をしていた。この時の影響があってか、何かに仲間と取り組むことのメリットを感じるようになる
中学までは勉強も部活も負けたくないため、それなりに頑張ったけれど高校に入って堕落する。授業はほとんど聞かず寝てばかり。毎日漫画を読んで過ごしていたら、指導教員に「学校始まって以来のどうしようもない生徒」と言われる。
一方で「君は本当はできる子だから頑張りなさい」という一言を言われ、まじめになる。
この一言を伝えてくれた長島先生は今でも心に残っている恩師。ひとは強い信頼を持ち相手を信じて言葉を伝えれば、相手に強い影響を与えられることを体感した。
それでも、同級生たちが大学受験に向けて勉強する中、何のために勉強するのか、自分はいったい何をしたいのかが全くわからず、勉強は進まない。
そして受検した大学全て不合格(この時はなんとなく文系を志望していた)
浪人生活~大学生活
浪人することになり、もう一度将来を考える。祖父が四肢麻痺だったこともあり、医学部に行こうと決める。
しかし高校時代は文系で、数学も理科も全く勉強していなかったので、監獄のような寮のついた予備校に入り(通称牢獄予備校)、浪人時代大変な苦労をする。
2年の浪人を経て私立の医学部に合格する。浪人時代に苦労したこともありまた遊びたい時期でもあり、大学に入ると一切勉強しなくなる。赤点ばかりを取り再試験におびえる生活を送る。
大学2年生の時に先生から「お前はできるやつなのにどうしてやらないんだ?」と叱られる。
この一言が嬉しくて勉強をするようになる。しかし、人体や人の脳の可能性に興味を持っていたため、人の才能をうまく使えば楽に勉強ができるはずだと信じこみ、楽して試験に合格する方法ばかりを考えていた。
優秀な同級生の授業中の態度やノートの取り方(試験前にノートを借りてコピーしまくる)を研究し、生まれ持った頭の良し悪し以上に、工夫次第で勉強は楽になることを知る。
さらに勉強方法・記憶力の高め方、脳の能力を活用した勉強法を極めるために、心理学や大脳生理学、今でいう脳科学などを自分のために(楽して合格するために)勉強しはじめる。いつしか、同級生に講義をするようになる。
医師国家試験に楽々合格。
医師時代
母校に残り、大学病院で勤務医生活を送る。当直に実習でやっていた学生たちに勉強法や心電図の読み方などを教えるようになり、人に教えることの楽しさを知る。口コミで評判になり、毎年学生たちが指導をあおぎにやってくるようになる。
貧しい家庭から医学部に入ったため、莫大な借金を抱えながらの生活。
大学病院での仕事だけでは借金を返せないため、他の病院での当直、僻地(高知県の山奥)での当直などを行う。
また上司の紹介で、麻酔科や救急医療にも従事する
ほとんど寝ていない生活を続け、結婚後も家に帰れない日々が続き、「何のために生きているのか?」「借金を返すために医者をやっているのか?」と疑問を持つようになる。そして精神的に疲れたこともあり、5年の大学病院勤務医生活を経て、独立起業してしまう。
独立起業後
勉強法を教えるのが好きだったので、過去に蓄積したノウハウやその後に学んだ脳の特性などをメールマガジンで発行したところ、社会人受験生向けのメルマガ部門で全国一位になる。
そのノウハウを有料で指導し、弁護士、医師、社労士、行政書士、難関大学・・・など多数の合格者を輩出する
お世話になった方々
・ノーベル賞候補に6回以上ノミネートされた脳の世界的権威、トニー・ブザン氏よりマインドマップインストラクターの許可を与えられる。東海地区で初のマインドマップ公認指導者になる。
受講生には主婦、大学教員、高校教員、経営者、カリスマブロガー、ベストセラー作家など
・ベストセラー『質問会議』の著者の清宮氏よりアクションラーニング(より実践的なアクティブラーニング)を学ぶ。会議を通したリーダーシップ開発、チームビルディング、対話力の向上などの技術を習得
・元船井総研トップコンサルタントの柳生氏より経営者向けのコンサルティング技術を学ぶ。経営塾主催のプレゼン大会で全国3位に選ばれる
・平本あきお氏、宮越大樹氏よりコーチングやカウンセリングを学びアドラー派の心理学、カウンセリングについて、200時間以上のトレーニングを受ける
・脳科学の大家よりモデリング(モデルとなる結果を出している人の才能を全て自分に取り込み、短期間で成果を出す技術)の技術指導を受け、世間に広める許可を得る
研修講師(時に、医師としての仕事)をしながら生活するも、2017年にうつ病を発症し、まったく動けなくなり廃業。
家族や周りの友だちたちに支えられ、どうしてうつ状態だったのかもわからないくらいに回復。
この実体験を通して、心を患う人や自分に自信を持てない人の気持ちが痛いほどわかるようになり、人として成長するために必要なことだったと前向きにとらえている。
この体験から、お世話になった方々へのご恩をペイフォワードしていこうと決める。
また精神的に病んだことは自分らしく生きていなかったからだと気づき、好きな事をして生きていこう!、好きな人・尊敬できる人を大切にして生きていこう!と自然に思えた。
現在は生きていることだけにも感謝できるし、毎日が楽しくてしょうがない。
現在
メインの仕事は医師として活動し、無償で人の相談に乗っている
産業保健に関わらず、人生で役に立つ知識、知恵、ノウハウ、考え方、美味しいお店の紹介をするのが好き。
今から思うと祖父が四肢麻痺になり最初は杖をつけば歩けたのに、次第に廃用が進み自分では全く移動できなくなってしまった。
もしも当時情報があれば・・・
その経験があり、世の中の人が同じような思いをしないためにも、与えすぎの弊害に配慮しつつも有益な情報を発信していきたいと思っている